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【RIOT】Fire Down Under Tour 1981 & 世界一不運なバンド・ライオットの物語

前半:各種ライブ音源
後半:
RIOT STORY

 

 


1981年、ニューヨーク出身のハードロック・バンド、RIOT(ライオット)はエレクトラ・レコードとレコード契約を結び、3枚目のスタジオ・アルバム「ファイアー・ダウン・アンダー」(原題:Fire Down Under)を発表する。

ライオットの最初の2枚のアルバム「ロック・シティ」「ナリタ」は好評を博したが、プロダクション面ではベストとは言えなかった。しかし「ファイアー・ダウン・アンダー」におけるプロダクションは最高で、バンドはソングライティングの面でも最高の状態を維持しており、すべての要素を備えた素晴らしいアルバムに仕上がった。

1981年1月、ライオットは、当時イギリス国内でブームを巻き起こしたNWOBHMの代表的バンドの1つ、サクソンとツアーを行う。この時のツアー音源がマーク・リアリの遺品から見つかり、2公演とデモ音源がオフィシャル・ブートレッグとして登場した。

また、BONDAGE MUSICから1996年にリリースされた「FEEL THE FIRE」からコピーしたであろう、北米ツアーよりクリーヴランド公演もオフィシャル・ブートレッグに収録された。ここでは、それらファイアー・ダウン・アンダー・ツアーの音源をこっそりとアップしましょう。こっそりとやで🤫

 

 

 


Fire Down Under - Rehearsal Acoustic Writing Demos 1980

1. Swords and Tequila [Ver 1]
2. Unknown1 (previously unreleased)
3. Unknown2 (previously unreleased)
4. Misty Morning Rain
5. Swords and Tequila [Ver 2]
6. No Lies
7. Outlaw [Ver 1]
8. Unknown3 (previously unreleased)
9. Outlaw [Ver 2]
10. Shakin' Off the Angels (previously unreleased)
11. Altar of the King
12. Unknown4 (previously unreleased)
13. Shakin' Off the Angels (previously unreleased)


「ファイアー・ダウン・アンダー」の作曲とレコーディングの過程で録音された1980年のデモ音源を収録。面白い曲もあるが特別なものはない。デモ音源のクオリティは決して高くはないが、歴史的な資料として持っておくには良いだろう。


demo1980

 

 

 

 

 

 


NEW YORK ROCK CITY

1. Swords and Tequila
2. Fire Down Under
3. Feel the Same
4. Don't Bring Me Down
5. Don't Hold Back
6. Overdrive
7. No Lies
8. Altar of the King

9. Guitar Solo - Outlaw
10. Road Racin'
11. Rock City
12. Tokyo Rose

13. Warrior
14. Rock City*
* at Hammersmith Odeon, London apr 12th 1980


BONDAGE MUSICレーベル、プレス1CD。1981年9月15日ニューヨーク州ロングアイランド公演をサウンドボード録音で収録。1998年にリリースされたブートレグ。2012年にはLOST AND FOUNDレーベルから「1981 FLASHBACK」というタイトルで、同日公演の映像を収めたDVDRとセットで再販されている。

この日はラジオ局のスタジオライブだったようで、映像も残されており複数のブートレグDVDが存在する。YouTubeにもアップされているので御覧になった方も多いだろう。映像とSBD音源では演奏が若干異なり、恐らくこの日は同会場で2公演が行われていたと思われる。

演奏は最高で、ガイ・スペランザ期のベストライブの1つと言っても差し支えないだろう。バンドとして完成されつつあったことを証明する内容である。ガイも、まだツアー序盤と言うこともあり疲れも無かったのだろう、終始ハイテンションで飛ばしている。これを聴くと、やはりライオットにはガイ・スペランザ以外のシンガーは似合わないと改めて感じる。

それでは音源をどうぞ。ボーナストラックの1980年ロンドン公演はカットしております。


NY 1981 pt1


NY 1981 pt2

 

 

 

 

 

 


Live at Manchester, Apollo 13th October 1981

1. Swords and Tequila
2. Fire Down Under
3. Altar of the King
4. Don't Hold Back
5. Overdrive
6. Outlaw
7. Road Racin'
8. Rock City
9. Warrior


1981年、サクソンとの英国ツアー音源から10月13日マンチェスター公演を収録。前後の北米ツアーと比べると、ガイ・スペランザの調子が今一つ良くない他、バンドの演奏も若干ミスが目立つように感じられる。英国でのツアーと言うことで緊張でもあったのだろうか。

元の音源はピッチが若干低い。下段のイプスウィッチ公演も同様にピッチが狂っている(低い)ので、リアリが所有していたテープの状態がいずれも劣化していたのだろう。通常は修正して収録すると思うのだが、そのままでオフィシャル化しますかね(苦笑)。

正直、1981年北米2公演を収録したBONDAGE MUSICの2枚のブートのほうが質は高いです。でも、貴重な音源が聴けるだけでも大変にありがたい。では、音源をどうぞ。ピッチを修正しておきました。そのままだとスローな感じで聴けたものでは・・・。

 


manchester 1981

 

 

 

 

 

 


Live at Ipswich, Gaumont 14th October 1981

1. Swords and Tequila
2. Fire Down Under
3. Altar of the King
4. Don't Hold Back
5. Overdrive
6. Outlaw
7. Road Racin'
8. Rock City
9. Warrior


10月14日イプスウィッチ公演を収録。上段マンチェスター公演の翌日のライブ。ガイの調子は前日と比べると比較的良くなっている。演奏自体はそれほどの違いを感じない。おまけに両公演ともラストのWarriorがフェードアウトで終わるのも頂けない。

ついでにピッチの狂い方もこちらのほうがより酷い。もしかしたら英国ツアーだけ半音か3/4ほどピッチを下げて演奏したのだろうか、などと考えてしまったが、9月15日のNY公演も、11月8日クリーヴランド公演も同じピッチなのに、合間の英国2公演だけ低くするなど当然考えられない。オフィシャル化するならこの辺りもきちんとして欲しい所。

では、音源をどうぞ。北米公演を基準にピッチを修正しております。


Ipswich 1981

 

 

 

 

 

 


Live at Agora Ballroom, Ohio 8th November 1981

1. Swords and Tequila
2. Fire Down Under
3. Altar of the King
4. Feel the Same
5. Don't Bring Me Down
6. Don't Hold Back
7. Overdrive
8. Guitar Solo
9. Outlaw
10. No Lies
11. Road Racin'
12. Rock City
13. Warrior


北米ツアー#2より、11月8日オハイオ州クリーヴランド公演を収録。ライオットファンなら誰もが知っているであろう、1996年にBONDAGE MUSICからリリースされた「FEEL THE FIRE」と同じ音源。所有しているブートと聴き比べてみたが全く同じだった。本当にリマスタリングしてあるのかな?恐らくブートからコピーしたのだろう。

演奏は、上段の英国2公演と比べて格段に良くなっている(出回っている音源で一番の内容は9月NY公演と思う)。音質はFMエアチェックと思われ若干ノイジーだが、ブートを聴きなれている人なら余裕で高音質の類だろう。では、音源をどうぞー。


cleveland 1981


この北米ツアーがいつまで続いたか詳しいデータがない為、不明だが、オリジナル・シンガーのガイ・スペランザはツアー終了後、バンドを脱退してしまった。個人的にはライオットに必要不可欠なシンガーだと思うし、レット・フォリスター期以降は全く関心を持てない。それくらい、ガイがいた頃のライオットは独特な魅力を放っていた。

ガイは、バンドの人気が拡大していく中でツアーによる疲労説や、音楽業界に嫌気がさしたなど様々な説が流れているが脱退。アンスラックスへの参加要請もあったそうだが、結婚を機に音楽業界から完全に引退してしまった。

2003年、膵臓癌により死去。彼は家族と一緒にフロリダに住んでおり害虫駆除業者として働いていたという。47歳という若さだった。以上、ライオットの音源でした。

 

 

 

 


世界一不運なバンド、ライオットの物語
ピーター・マコウスキー著 ( クラシック・ロック )
2021年2月2日発行

70年代後半、ライオットはアメリカン・ロックにおける期待の新人グループであった。しかし、それは世間から無視され、レーベルから見捨てられ、ボーカルが辞める前の話だ。そして事態は本当に悪くなっていった。

これは米ハードロックの英雄になり損ねたバンドの悲運の物語である。運とタイミングの悪さ、誤った決断、個性のぶつかり合い。音楽業界の陰謀、レコードを買う人々の気まぐれさ、そしてロックンロールの夢の暗黒面に堕ちたバンドの話だ。

そのバンドとは、成功への強い意志を持ちながら失敗を繰り返したニューヨーカーの集団ライオットである。1977年から1981年にかけて、彼らはスーパースターへと駆け上がる筈のアルバムを次々と発表し、そのうちの1枚、1981年リリース「Fire Down Under」は、80年代初期ハードロックの名盤の1つに数えられている。

彼らの影響を受けたと語るラーズ・ウルリッヒから、彼らの定番曲からインスピレーションを得たレディー・ガガまで、ライオットはあらゆる人から賞賛されている。


彼らには曲もルックスも決意もあった。彼らに欠けていたものはブレイクだった。ライオットの物語は、ヘヴィメタル叙事詩の全ての要素を持っている。若者の夢、逃したチャンス、絶え間なき忍耐、繰り返される失敗、フラストレーション、茶番、口論、暴力、ドラッグ・・・そして1人ではなく3人の主要メンバーの死だ。

スパイナル・タップ」のジョーク抜き、「アンヴィルの物語」のハッピーエンド抜き。ロックンロールの名声を夢見る人への訓話であり、成功するバンドがいる裏で、夢に破れ去ったバンドが何千といることを思い起こさせる。

80年代初頭の全盛期にバンドに在籍していたドラマーのサンディ・スレイヴィンは、「本当に驚くことだけど、俺らには何かが起こっていたんだ」「エース・フレーリーと一緒にツアーしていた時、バスの中で皆が音楽業界の怖い話をしたものだ。俺の話は、いつもちょっとだけ怖かったな」と語る。

70年代後半から80年代前半にかけて、バンドの共同マネージャーを務めたビリー・アーネルは「成功する為には、優れたプレイヤーである必要があることは勿論、プレスと仕事をしたり遊びをしなければならない」と言う。

「ライオットの面々はそういうことが得意じゃなかった。彼らは、数十億ドル規模の産業である音楽ビジネスにおいて、少年時代を過ごしたブルックリンの頃とは違いビジネスを考える必要があることを理解していなかったんだ」

元ギタリストのリック・ヴェンチュラは、物語の最悪の場面を生きてきた男だが、もっと率直にこう述べる。「不運なバンドの話だよ」と。


ライオットの原動力といえば、ギタリストのマーク・リアリである。背が高く、痩せっぽちのモントローズ・マニアで、難病の影響で頭髪が薄くなり、それを何度もカツラで隠していた。地味だが静かに燃える野心家のリアリは、バンドの歴史を通じて唯一の不変のメンバーであった。

1975年夏、ベースのフィル・ファイト、ドラムのピーター・ビテリ、ボーカルのガイ・スペランザとともに、リアリは故郷のブルックリンでバンドを結成した。

イタリア系アメリカ人で、アフロヘアーの髪型が印象的なスペランザは、一見すると70年代のロックの神様の魂を持っているような人物であった。しかし、その控えめな物腰は、彼が必ずしもロックンロールの世界に向いている訳ではないことを示していた。

「マークは、ガイをバンドに加入させる為に説得する必要があると言っていた。彼はブルックリンでトップ40に入るバンドで歌っていたんだ。ガイは順応性が高く、どんなスタイルにも対応できる人だった。ライオットに参加してシンガーになった時も、どのバンドと一緒にいてもガイのサウンドの世界になるんだ」と、後にドラマーとなるスレイヴィンは振り返る。。


スペランザと同じように、リアリも10代の頃は裏庭のパーティーで酔っぱらった学生仲間にハンブルパイやフォガットのカバーを聴かせるような、どこにでもある平凡なバンドに属していた時期がある。

しかしライオットはそれらと違い、自分たちで曲を作っていた。そして自分たちにはもっと大きな可能性がある、もっと大きな成功を得られると信じていた。

だが、タイミングは最悪だった。70年代半ばのニューヨークはディスコ・フィーバーに沸いており、キラキラした快楽主義と白い粉が流行した。

他の場所では、ラモーンズパティ・スミス、テレビジョンなどが率いるパンク・シーンが、悪名高いCBGBで急成長していた。当時、ビッグアップルでは、レッド・ツェッペリン以外のハードロック・バンドは、注目を集めるにも苦しい闘いを強いられていた。

 

ビリー・アーネルとスティーブ・ローブという、やり手の経営陣がいた。広告代理店のクリエイティブ部門にいたアーネルは、「マッドメン」にいてもおかしくない銃口を持ったヒップスターで、チェーンスモークをくゆらせながら弁舌をふるっていた。

一方、のんびりした性格のローブは、ヒッピーとハスラーを兼ねており、子供の頃、後にKISSのギタリストとなるエース・フレーリーとよくつるんでいた。

アーネルとローブは10年に渡り、ライオットのキャリアに重要な役割を果たすことになる。アーネルはローブと組んで、マンハッタンにあるグリーン・ストリートというスタジオを購入した。

彼らは、自分たちの新しいレーベルであるFire Sign Recordsからリリースするバンドを探していた。当初は、パンクやニューウェーブなど、エッジの効いたバンドと契約しようと考えていた。

しかし、1976年の夏、クラブで演奏していたライオットに出会い、彼らは即座にこのバンドに新たな可能性を見いだした。

「音楽もいいし、ルックスもいいし、素材もいい」とビリー・アーネルは当時を回想する。そして、「何が起こるか分からなかったよ」こうつぶやいた。


1976年末、ライオットはグリーン・ストリートに入り、デビュー・アルバム「ロック・シティ」をレコーディングした。

2人のマネージャーは、自分たちのレーベルからリリースするだけでなく、自分たちでプロデュースすることを選択し、後にバンドに影響を与えることになる利害の衝突の種をまいた。

このアルバムは、制作に7ヶ月という長い期間を要し、内容的にはまとまりが無くバラバラの作品となったが、"Warrior", "Tokyo Rose"やタイトル曲というカルト的な名曲が3曲含まれていた。

また、バンドのマスコットとなる、斧を振り回す半人間+半アザラシのハイブリッドであるティオールは実におかしな存在で、少なくともバンドメンバーたちの間では賞賛と同じくらいに嘲笑を誘っていた。


1977年末にリリースされた「Rock City」は、チャートがフリートウッド・マックドナ・サマーに支配されたこの年には殆ど受け入れられず、アメリカでは跡形もなく沈んでしまった(ただし、日本では大きな反響を呼んだ)。

にもかかわらず、バンドは次の作品「ナリタ」の制作に取り掛かった。バンドはより自信に満ちたサウンドを奏で、後にライブの定番となる"Road Racin"'という素晴らしい曲も生み出された。

しかし、この頃、ライオットはニューヨークの音楽シーンで起こっているあらゆる流行についていけなくなっており、同じく急速に名を上げていた期待のハードロック・バンド、ヴァン・ヘイレンがいるロサンゼルスにスポットライトを持っていかれていた。

1979年6月、東京の国際空港にちなんで名付けられた「ナリタ」は、マスコットのティオールが力士に扮したジャケットで発売されたが、当初は日本国内のみで発売された。またもやアメリカはライオットに関心を抱かなかった。

 

セカンド・アルバムの時点で、ライオットは彼らのキャリアを特徴付けることになるラインアップ変更をすでに何度か経験していた。オリジナル・ベーシストのフィル・フェイトはデビュー・アルバムのセッション中にジミー・アイオミと交代し、セカンド・ギタリストのLAクヴァリスはその直後に脱退し、リック・ベンチュラが彼の後を継いでいる。

「マークが始めたバンドであり、マークの為のバンドだった。彼がバンドの方向性を変えたいが為に意見が衝突することもあったよ」とベンチュラは言う。

「Narita」を完成させてからリリースするまでの間に、ニュージャージー出身のサンディ・スレイヴィンという新しいドラマーが加わった。

「マークが電話してきたんだけど、ライオットなんて名のバンドは聞いたこともなかったよ。話を聞くと、彼がバンドのリズム隊を辞めさせたと言うんだ。なんでバンドを解体したんだろうと思った。でも、マークは本当に良い人だった。それに俺たち2人ともモントローズの大ファンだったんだ」とスレイヴィンは言う。


しかし、度重なるメンバーチェンジよりも大きな問題があった。ライオットは母国でブレイクすることに苦労しており、アーネルとローブは、バンドに力を与える為に助けが必要だと気づいた。

彼らは、イアン・ハンターやルー・リード代理人を務めていた音楽ビジネスの有力者であるフレッド・ヘラーとパートナーシップを組むことを選択した。

「フレッドは、レーベルの幹部と電話で話すことができたので大きな違いがあった。それに人心掌握術を心得ていたんだ」とアーネルは説明する。

フレッド・ヘラーはすぐに存在感を示し、キャピトル・レコードと契約して「Narita」を米国でリリースし、テキサスでAC/DCのサポート・ツアーを行うことになった。ライオットは、大舞台に立つ寸前まで来ていると考えていた。

「俺たちの誰もが経験したことのない、初めて行ったアリーナ公演だった。俺たちはロック・スターになったんだ!」とスレイヴィンは思ったという。ビリーとスティーブは「何色のメルセデス・ベンツが欲しいんだ?ゼロから1000になったんだ」と話していたという。

現実は、ライオットは自分たちの存在感を音楽リスナーたちに示すことにまだ苦労していた。この状況を受け、アーネルとローブは思い切った改革案をバンドに提示した。


1979年末、彼らはバンドをミーティングを招集した。「ハードロックにはもう市場がない。サウンドを全部変えて、スキニー・タイにして、ニューウェーブになれと言われたんだ。俺たちは若かったから、そんなのクソくらえ!って言ったんだ」(リアリ)。

音楽性の方向転換を迫られる危機を回避したバンドは、次第に運が向いてきたことに気づく。センスの良いイギリス人DJ、Neal Kayのサポートのおかげで、バンドはイギリスで大きな人気を得ており、1980年2月にはサミー・ヘイガーのイギリス・ツアーのサポートに同行することになった。

ここでベーシストにキップ・レミングを迎えてラインナップを変更することになった。そして数ヵ月後にはドニントンで開催された「Monsters Of Rock 1980」フェスティバルに参加し大成功を収めた。

「雨が降って、そこら中が泥だらけだったんだ。バンドのチェックをする為に客席に出たら芝生の塊が降ってきた」とレミングは笑いながら振り返る。

ライオットは勝者の気分で帰国した。ライオットは凱旋帰国し、3枚目のアルバム「Fire Down Under」の制作に取りかかる。しかし、このとき彼らは、この船が水面下に沈むことを知る由もなかった。

 

「Fire Down Under」を振り返りながら、ギタリストのリック・ベンチュラは、バンドが苦境を乗り越えたことを回想している。「ケミストリーがうまくいって、メンバーの仲も良くて、みんないい演奏をしていた。全てがひとつになったんだ」。

多くの曲をマーク・リアリとガイ・スペランザが一緒に作曲し、ベンチュラも自分の曲を持ち込んだ。そして全員がアレンジを担当した。3年に渡る混乱の後、バンドはついに全員が同じ方向に向かうことができた。

ビリー・アーネルは「バンドがタイトになるところまで来ていた。彼らは芸術的なアイデンティティを持ち始めていたんだ。プロデューサーとして、スティーブと私はそれを台無しにすることはできなかった」と語る。


「Fire Down Under」は、ライオットのキャリアの頂点であり、1980年代初期のハードロック・レコードとして画期的なものである。メロディックで幻想的であり、鋭さとタイトなエネルギーのバランスを保ち、リアリが愛したモントローズと、その数年後に出現する新生スラッシュ・シーンの間のギャップを埋める名作となった。

中でも"Swords And Tequila"は、アイアン・メイデンのスティーヴ・ハリスと、メタリカのラーズ・ウルリッヒによって名曲として賞賛されている。また、この曲は意外なミュージシャンにも影響を与えている。

「Swords And Tequilaの冒頭を聴いて、次にLady GagaのElectric Chapelを聴いてみてくれ。この曲のギターのイントロが信じられないほど似ているんだ。音符だけでなくサウンドも。彼女は80年代のロックが好きなんだろ?」とスレイヴィンは言う。

2度の失敗を経て、ライオットはついにロックの頂点に立つ為の最高傑作を作り上げた。少なくとも、そうなるはずだった。しかし、キャピトルはそのリリースを拒否した。レーベルが「商業的に受け入れられない」と判断したのだ。1981年の風潮には重すぎるというものだった。

だが、本当の理由はビリー・アーネルとスティーブ・ローブによる権力闘争の失敗であったとスレイヴィンは示唆している。

「リック・ベンチュラが作った曲で"You're All I Needed Tonight"というのがあって、うちのA&Rが気に入ってたんだ。彼はそれがヒットすると言って、LAの重役たちにテープを持って行って聴かせたんだ。だけど、ビリーとスティーブはその曲をアルバムに入れなかった。もちろんA&Rはバカにしたような顔をする。そこでレーベルは商業的に受け入れられないと判断したんだ」。


理由はどうであれ、ダメージを食らったライオットのノックバックは悲惨なものだった。アーネルはレーベルと対立しファンを巻き込むことにした。ライオット・ファンクラブのメーリング・リストに登録している全員にハガキを送ったのだ。

「アザラシの頭をして斧を振り回しているティオールが、象牙の塔で狂信的な会社の重役に捕らわれてしまった」ライオットのマスコットキャラクター 、ティオールにちなんで、アーネルはこのようなメッセージを送った。

彼は、このアルバムの発売を求める嘆願書を作成し、ファンを始めアイアン・メイデンなどのスティーヴ・ハリスらが署名した。この運動は、アメリカのマスコミはともかく、イギリスの音楽専門誌に取り上げられた。

しかし、このキャンペーンはかえって事態を悪化させた。キャピトルはアルバムの発売を拒否した一方で、ライオットを手放す気もなかった。飼い殺しの状態でライオットの資金は底をついた。これにより、共同経営者とマーク・リアリ&ガイ・スぺランザ以外のメンバーとの間に亀裂が入り始めた。

「バンドの資金が途絶えてしまったんだ。ニューヨークのアパートを手放して、ニュージャージーに戻らなければならなかった。もうダメだった。ビリーとスティーヴは(キャピトルとの契約から)お金を取っておいたから活動を続けることができたんだ。でも彼らはアルバムをエレクトラに売った。彼らはクソレコード(Fire Down Under)を2回売ったんだ」スレイヴィンは、今でもそのことを思い出しては苛立つという。

 

ライオットの救世主となったのは、敏腕A&Rのトム・ズータウトの熱意によって立ち上げられたエレクトラ・レコードであった。キャピトルからライオットを引き離し、ついに「Fire Down Under」をリリース。前2作を上回るセールスを記録し、バンドは安堵した(全米で50万枚を超えるセールスを記録する)。

しかし、またもや彼らは崩壊寸前の危機に直面する。1981年11月、グランド・ファンク・レイルロードのサポートをしていたガイ・スぺランザが爆弾発言をした。

「ガイは僕とマークに向かって三人称で話し始めたんだ。冗談だと思ったから何も言わなかった。ホテルに戻ったら突然、俺は辞めるんだって言うんだ。結婚する、フィアンセはロックが好きじゃないと彼は言ったんだ」とスレイヴィンは振り返る。

キャリアのピークを迎えようとしていたバンドにとって、このタイミングは最悪だった。ブレイクし始めたバンドだが、恋の為にフロントマンが離れていく。


スペランザの脱退については誰もが異なる見解を持っている。ベーシストのキップ・レミングは、「ガイはレザーパンツとキラキラした服を着るのが嫌だったんだ。やりたい音楽じゃなかった」と話す。

サンディ・スレヴィンは「ガイは、ビリー・アーネルとスティーブ・ローブの二人のビジネスにうんざりしていた。ツアーをしても払い戻しがないことにもうんざりしていたんだ」と語っている。

当然のことながら、アーネル自身はこの件に関して異なる見解を持っている。「ガイは、とてもメロウで優しい人だった」と彼は言う。「フロントマンとしては、あまり自信がなかったんだ。彼は素晴らしい作詞家で個性的だったが、フロントマンにはそれ以上のものが必要なんだ」。

理由はどうであれ、スペランザは決心していた。1981年12月22日、ニュージャージー州ラザフォードのメドウランズ・センターで行われたラッシュのサポート・ライヴの2回目で、彼はライオットでの最後のライヴを行いソールドアウトになった。

「その時のガイの写真を持っている」とサンディ・スレイヴィンが言う。「彼はコートを肩にかけて楽屋から出てきて、それが私が彼と話した最後の時だ。彼は脱退してホッとしたんだろう」。

スペランザは音楽業界を去り、害虫駆除業者になった。ライオットのファンだったラーズ・ウルリッヒが、ニューヨークのアパートでネズミが大量に発生したので害虫駆除業者に依頼したところ、ドアをノックしたのがガイ・スペランザだったという逸話がある。

 

主要メンバーを失ったことはバンドにとって致命的なボディブローとなった。しかし、マーク・リアリにはバンドをやめるという選択肢はなかった。ライオットは血まみれになりながらも、倒れることなくニューヨークに戻ってきた。

数回のオーディションを経て、後任をレット・フォレスターに決めた。ニュージャージー出身のバンドリーダーの息子で、彫りの深い顔立ちとブロンドの髪、そして、様々なカバーバンドで培ったスタイルを持っていた。

新しいシンガーを迎えたバンドは、4枚目のアルバム「Restless Breed」をレコーディングする為にスタジオに入った。このアルバムは、よりタフで、よりメタル・サウンドに近付いたアルバムだ。クワイエット・ライオット「Metal Health」に似ているが、それより1年前にリリースされたものだ。

「ガイがいないバンドは最悪だった」とスレイヴィンは言う。「レットは常に演技的だった。とても本物だと思えなかった」。

フォレスターは、気性が荒く不安定な性格であることがすぐに明らかになった。バンド内での揉め事も増えた。さらに悪いことに、レットは信頼できない人物であることが最初のツアーで判明した。

ナッシュビルに着いた時、レットが飛行機に乗っていないという話を聞いたんだ。突然、ツアー・マネージャーに電話がかかってきて、電話から戻ってくるなり『ツアーは終わりだ。レットは病院にいる』と言ったんだ」とスレイヴィンは振り返る。

フォレスターマディソン・スクエア・ガーデンで行われたクイーンのショーに参加し、アフターショーで「何か」を摂取し、4日間入院していたことが判明した。


フォレスターは、次のアルバム「Born In America」を制作する為に十分な回復を見せた。しかし、バンドは明らかに道を踏み外し始めていた。マネージャーも同様だった。アルバムのプロデュースは、昼間はスティーブ・ローブ、夜はビリー・アーネルがスタジオに入り、アーネルには護衛の為に2人のボディガードが同伴していた。

この時、アーネルはもう限界だった。経営を辞めて身を引いた。現在、彼はコンピューター業界で成功を収めつつ、副業として作曲やプロデュースを行っている。ソロとなったローブは、エレクトラとの権利争いの後、「Born In America」を他のレーベルに持ち込もうとしたが誰も興味を示さなかった。

「スティーブ・ローブは何事もなかったかのように、アルバムを持ってエレクトラにやってきたんだ。関係者が警備員を呼んでローブをオフィスから追い出した」とスレイヴィンは言う。

リック・ヴェンチュラは、ライオットでの活動の熱意が消え失せており、それを隠すことが出来ずにバンドから解雇された。バンドはKISSのサポートで1度ツアーに出たが、その日をもって終了することにした。1984年5月、クイーンズのL'Amoursクラブでのライブが彼らの最後となった。

「あれは私が企画したショーだった。あの日の収益は、Kissのサポート・ツアーで稼いだお金よりも多かったんだ」とスライヴィンは不機嫌そうに言う。

 

栄光の時代が終わったとしても、ライオット自体は終わっていない。マーク・リアリはサンアントニオに移り住み、ライオットのセカンドアルバムにちなんでNaritaと命名した新バンドを結成した後、バンドをライオット名義に復活させる。

その後、ライオットのメンバーを変えながら10枚のアルバムを制作するが、「Fire Down Under」には及ばない。そのうちの1枚「Privilege Of Power」はホーンを多用した実験的な大作だった。

ライオットの不運は、最初の解散にとどまらなかった。1994年1月2日、レット・フォリスターがアトランタでのカージャックの際に撃たれて死亡した。

「車の外に立っていた犯人がレットに何かを売ろうとして、レットがグローブボックスから何かを取ろうとした時に、そいつはレットが銃を取ろうとしていると勘違いをしてレットの背中を撃ったと推測している」と、 サンディ・スライヴィンは言う。

2003年11月8日、ガイ・スペランザは膵臓癌と診断されこの世を去った。彼が20年間、害虫駆除の仕事で毎日扱っていた化学物質と関係があるとガイの妻が考えていることを、マーク・リアリがインタビューで明かした。


そして2012年1月25日、マーク・リアリは人生の大半を闘病してきた腸の難病であるクローン病の合併症でこの世を去った。彼は、病気が悪化して活動が続けられなくなるまでライオットの旗を掲げていたのだ。

リアリが亡くなる1週間前、リック・べンチュラはニューヨークでライオットの現ラインアップとジャムをする為に姿を現した。「彼は病気で演奏できなかったんだ。マークがいなくなって寂しいし、ガイもいなくなって寂しいよ」

ライオットが呪われていたと言うのは大げさだが、彼らはタイミングの悪さと不運の嵐に巻き込まれてキャリアを過ごしたように見える。

彼らはキャリアの中で多くの失敗を犯した。そのような状況にもかかわらず、バンドが耐え抜いて活動を続けてきたことは彼らの功績であり、特にマーク・リアリの功績である。


代表作「Fire Down Under」から31年、生き残ったメンバーはライオットに苦い思い出を持っている。「ライオットで一番印象に残っているのは笑いだよ。いつも楽しくてしょうがなかった」とサンディ・スラヴィンは言う。

「バンドは歴史に名を残し、多くの人々に影響を与えたみたいだね。それを本当に誇りに思っているんだ」とリック・ヴェンチュラは言う。

「一時期、俺たちは世界最大のスモール・バンドだったんだと思う」と、キップ・レミングは付け加えている。

2013年に結成されたライオットVは、ライオットの旗を掲げ続け、2014年の「アンリーシュ・ザ・ファイアー」と2018年の「アーマー・オブ・ライト」という2枚のアルバムを発表している。